ここで戦前の美術部について、OB 村井新児の貴重な回想があるので、引用しよう。
昭和六年、突然学部の甲川巖氏の訪問を受け(註:村井は当時予科の学生だった)、現在独立美術協会会員の鳥海青児氏が先輩であることや、第 1 回学生美術展に大いに活躍した学校の美術部の事を聞き、甲川氏卒業後学校から美術部を廃滅させたくないから承継する様にと依頼を受けた。美術部とは云えこれは甲川氏等が学連出品のために勝手につけた名前で、当時社会状勢から文化団体としての美術部を学校は認めず排撃される有り様であった。
(村井新児「文化排撃の次代に生る」『白鷲』創刊号、1949 年 12 月)
このことからも、第 1 回大阪学生美術連盟展の直前、1928(昭和 3)年の秋ごろに、洋画研究会から美術部に改称されたことが裏付けられる。
では、「白鷲会」の名称は、いつごろ付けられたのであろうか。これについても、同じく OB の村井が次のように語っている。

展覧会場にて 1934 年の卒業アルバムから(関西大学年史編纂室提供)
中村 ( 実 ):白鷲会という名前はその頃 ( 註:戦前 ) から?
村井:私らがつけたんです。
昭和七、八年ごろは、学内での文化活動は認められているが学外との交流は許されていなかった。そこで展覧会に出品できないので、白鷲会の名前で出した。
辻村 ( 明俊 ):千里山に ‟ シラサギ ″でも飛んでいたんですか。
村井:いいえ。鳥の王者はワシだ。それにしても、なにかきたならしい。白はきれい、ミックスして白鷲、スマートに‟ハクシュウ″と名乗った。
(「絵筆とった千里の古巣に集う 横田教授囲み白鷲会 OB 緑陰座談会」『関大』第 268 号、1978 年 8 月 15 日付)
白鷲会の名前が付けられたのは1932(昭和 7)年から 1933(昭和 8)年のことであり、そこには当時の恵まれない環境に抗するかのような、雄々しく気高い志が込められていた。