1931(昭和 6)年の満州事変を発端に軍国主義が台頭するや、その影響は学内外に着実に押し寄せてきた。大阪府下の大学や高等専門学校の美術部・絵画部の集まりであり、関西大学美術部の学外活動の場でもあった大阪学生美術連盟展は、1935(昭和 10)年の第 9 回展以降、記録が途絶えてしまう。正確な時期はなお確認を要するが、1930 年代中ごろには中止に至ったようだ。
1936(昭和 11)年 5 月に千里山学舎で開かれた関西大学創立 50 周年記念祝賀会では、イベントの一環として、村上喜貞教授指導のもと、鳥海青児作品と一般学生による美術展が開かれたが、これが美術部の活動であったか否かは定かではない。この後、関西大学の関係資料から、美術部や白鷲会の名はしばらく消えてしまう。
次に美術部白鷲会の名が見出されるのは、3 年後の 1939(昭和 14)年のこと。4 月 6 日付『関西大学学報』に掲載された白鷲会主催による古代ギリシャ史の研究家、村田数之亮の帰国歓迎会の記事である。記事によれば、会には部員、部員外あわせて 17 名が参集。白鷲会会長の田辺信太郎が開会の辞を述べた。田辺信太郎は、関西大学で商学史、経済学史を講じる傍ら美術評論家として活躍した人物であり、戦前、大阪に開設され、多くの洋画家を輩出したことで知られる信濃橋洋画研究所(後の中之島洋画研究所)の指導陣のひとりでもあった。このころは、顧問の教授が白鷲会の会長となっていたようだ。ちなみに、会場となったドンパルは、戦前、大阪の美術関係者のたまり場だった心斎橋の喫茶店である。
現在判明している戦前最後の美術部白鷲会に関する記事は、1943(昭和 18)年4 月 1 日付の毎日新聞に載った関西大学報国団美術部白鷲会作品展 (1 日〜 3 日・心斎橋大賞堂画廊)の案内である。「報国団」(かつての学友会)の名称が戦争一色となった陰鬱な世相を偲ばせる。この年の 12 月から学徒出陣が始まり、美術部白鷲会の部員たちのなかには、戦地で命を落としたものもあった。