初期の『白鷲』を見ると、
新歓コンパ、学外での回生展やグループ展、夏と冬の合宿、
大学祭(のちの千里祭、現在の学園祭)での学内展、
大阪市立美術館での白鷲会展、追い出しコンパなどが、
すでに1950年代から行われていた。
今日の美術部白鷲会の恒例行事の原型は、半世紀前にかたちづくられ、
名称や場所を変えながら継承されてきたことが分かる。
一方で、今日ではなくなってしまった行事もある。
そのひとつが「関関戦」である。
関関戦とは、
関西大学と関西学院大学がさまざまな競技で勝敗を競う スポーツ対戦であるが、
美術部白鷲会でも、1955(昭和30)年頃から1970年代初頭までの約20年間、
関西学院絵画部弦月会との間で「関関戦」と称した野球の交流試合や合同展、
交歓会が行われた。
また、1960年代末から1970年代初頭には毎年大阪の中之島公園で野外展が開かれている。
この頃、美術界では従来の絵画や彫刻の概念にとらわれない新しい表現が台頭したが、
その影響は美術部白鷲会にも現れ、この野外展でも、屋外の空間を活かした実験的な
作品が多く出品された。
夜間は部員がテントを張って不寝番をし、大阪市長からビールの差し入れを頂戴した
といったエピソードも残っている。
長く学外での回生展やグループ展に使われ、
各世代の記憶に残る発表の場としては、
1950年代後半から1960年代にかけて
主として新人展の会場となった大阪堂島の喫茶店ムジカや、
1960年代中頃から1980年代中頃にかけて回生展などの会場になった大阪画廊、
1980年代初頭から1996(平成8)年に閉廊するまで学外発表の拠点になった
ギャラリー中之島などがある。