第二章 大阪学生美術連盟と大学祭

鳥海青児が関西大学を巣立ったのは1926(大正15)年のこと。
しかし、その活動は次代に引き継がれた。

このころ、関西大学だけでなく、大阪府下の大学や
高等専門学校の美術部・絵画部に、ひとつの機運が盛り上がる。

それは結集して学外で展覧会を開催し、日ごろの成果を広く世に問おうというものであった。

1928(昭和3)年、関西大学のほか、大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)、大阪外国語学校(現・大阪外国語大学)、大阪医科大学予科・本科(現・大阪大学医学部)、帝国女子薬学専門学校(現・大阪薬科大学)、大阪高等学校(現在の同名校とは別校)、大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)、大阪市立高等商業学校(現・大阪市立大学)、樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)、大阪府女子専門学校(現・大阪女子大学)、大阪歯科医学専門学校(現・大阪歯科大学)、浪速高等学校、大阪府女子師範学校(現・大阪教育大学)、梅花女子専門学校(現・梅花女子大学)の15校で大阪学生美術連盟が結成される。

大阪学生美術連盟の一員として学外に発表の場を得る一方で、
学内での作品発表も引き続き行われた。

関西大学では、1926(大正15)年から毎年秋に千里山学舎で大学祭を催すようになるが、
美術部は毎年その会場で展覧会を開催した。

大阪学生美術連盟と大学祭。関西大学美術部の1920年代後半から30年代前半にかけての
活動は、この二本柱を軸に展開したようだ。

第1回大阪学生美術連盟展会場 (『大阪時報』1929年1月26日付から複写)

→次の章へ進む 第三章 「白鷲会」の名称

© 2016 関西大学美術部 白鷲会