第五章 美術部再興

 1945(昭和 20)年 8 月、戦争は日本の無条件降伏で終結した。平和の訪れとともに、キャンパスにはふたたび学生たちが集い、活気が戻る。授業が再開されクラブ活動が次々と復活するなか、1948(昭和 23)年 5 月、有志の呼びかけにより美術部の活動も再開される。かわきりは 6 月の文化祭(文化部所属のクラブが毎年 5月〜 6 月ごろに大阪、梅田の産経会館で開催)、10 月の大学祭での学内展示であったが、戦争による活動の中断、人的交流の断絶がもたらした傷は深く、戦前の白鷲会の名称を正確に思い出せるものがなかったため、当時の目録には誤って「白鴎会」と記されている。

 再開にあたり、部員たちは当時の宮島綱男理事長に直談判し、活動の拠点として法文学舎(戦前の大学本館)の学長室の真上に部室を得た。この部室は、学舎建て替えのため建物が取り壊される 1954(昭和 29)年まで使用され、その後、部室は尚志館に移動した。

 また戦後関西大学は男女共学となり、美術部にも女子部員が増えるようになった。

1949 年の卒業アルバムから(関西大学年史編纂室提供)

左側の塔の 3 階に美術部白鷲会の部室があった 1952 年頃の法文学舎 (『関西大学 115 年のあゆみ』から複写 )

大阪市立美術館にて 津高和一氏を囲んで 1952 年頃(個人提供)

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