1950(昭和25)年には、 関西の大学美術部で組織された
全関西学生美術連盟が主催、 朝日新聞社が後援する
全関西学生美術展(全関展)に初めて参加する。
当時の連盟の加盟校は、
関西大学のほか、同志社大学、立命館大学、関西学院大学、
大阪市立医科大学(現・大阪市立大学医学部)、大阪商業大学、大阪市立大学、
大阪大学、神戸大学、神戸商科大学、神戸女子薬科大学(現・神戸薬科大学)、
大谷女子大学、大阪学芸大学(現・大阪教育大学)、京都工芸繊維大学、
大阪工業大学、大阪薬科大学、大阪歯科大学、神戸女学院大学で、
加盟校は年を追うごとに増えていった。
須田国太郎や吉原治良、須田剋太など、関西の洋画壇の重鎮が審査員をつとめ、
毎年夏に大阪市立美術館(のちには京都市美術館でも)で開かれた全関展は、
学生の展覧会とはいえ、新聞紙上にも展覧会評が掲載されるほどのレベルの高い
展覧会であったが、なかでも関西大学美術部白鷲会は以後毎回のように力作を出品して
入賞者を数多く輩出し、大いに注目を集めた。