1960 年代後半、全国の大学で学生運動の嵐が吹き荒れる。関西大学においても例外ではなく、1969(昭和 44)年にはその勢いが頂点に達し、キャンパスは騒然とした空気に包まれた。白鷲会展は中断することなく続けられたものの、学生の自治組織である学友会や全関西学生美術連盟など、美術部白鷲会が所属していた団体も、運営のありかたや方向性をめぐる対立から分裂・崩壊した。全関西学生美術連盟は翌年、運営形態を改め再組織されたが、関西大学美術部白鷲会は大学として加盟せず、以後、全関展へは個人参加となった。
こうしたなか、美術部白鷲会の部室があった尚志館が、部員の反対にもかかわらず取り壊され、やむなく特別講堂のロビーを仮の部室とする出来事があった。その後、部室は誠之館に移ったが、特別講堂のロビーはその後も美術部白鷲会のアトリエとして使用され、白鷲会展や回生展のための制作に部員が青春の汗と涙(?)を流す場となった。

誠志館の旧部室(現・学術研究会会議室 3 ) 2005 年撮影(個人提供)

1970 年代後半から 90 年代にかけて部室入口横に掲げてあった美術部白鷲会の表示(個人提供)

旧アトリエ 2005 年撮影(個人提供)

旧アトリエ前での制作風景 1997 年(個人提供)